張り詰めているようでたわんでいる。追い込まれているようで置き去りにされている。たいしたものでないとはわかっている。わかっていたところで体は動かない。仕事を休んで内科に行き、当たり障りのない薬を3種もらう。
昼は定食屋で。味噌汁の小葱と椎茸を、マグロと納豆に和えられたカブを、目をつぶりながら何度も噛む。午睡ののちに猫と遊び、鯖缶と大葉と梅干しを買ったらそれらを混ぜ込んだ米を炊く。食卓に安らぎを見出せるうちは、まだ明日へと今日を引き渡していられる。
床に就いて3時間ほどで目が覚めた。空気の点でも気持ちの面でも息苦しさを覚え、再び眠りに落ちるまでには時間がかかりそうだと悟り、パソコンを携え深夜の和室にそっと降りる。普段と異なる時間帯に現れた人間に、猫たちは寝ぼけ眼をゆっくりと細めた。
ふつふつと募りゆく主に自身への苛立ちに、脳が端から徐々に蝕まれていく。いかにしてこの腐敗を食い止めるか。絞るように書き表すことで、ようやっとまず向かうべき方角を定めた。言葉にしてみればたいしたことではない。でもたいしたことではないことばかりが積み重なって、乗り越えられない壁になる。
ついでに5日分の日記を整え、猫たちと軽く遊ぶ。さすがに眠気が忍び寄ってきたあたりでもう一度寝床に横たわる。起きると昼前。体の内側から伝わる腑の動きや音からするに、依然として本調子ではない。無理のないリズムで少しずつ戻ろう。あるいは戻れないとして、それならこの鼓動の間隔に慣れていこう。
藝祭に寄り、人の多さに目を丸くして、めぼしい展示を観たら上野駅へと退散。渋谷まで移動して道玄坂に向かう。友人との飲みが始まるまで40分。都心も都心のど真ん中で気軽に入れるカフェもなく、ガードレールにもたれながら本を読む。
居酒屋と風俗店と連れ込み宿とがひしめき合う細道にぽかりと構えられた貸し駐車場はそこだけ見晴らしがいい。水面が凪いでいくような速度で広がる淡いオレンジの薄雲を、夜の点灯を待ち侘びる灰色の看板の間に眺めた。
Amazonから届いたホッチキスを梱包ごとリュックに詰めてギャラリーへ。開場まで20分そこらの展示室で同居人とIさんが追い込まれている。バタつきはしたがなんとか無事に展示を始められた様子を見届け、蕎麦屋で遅めの昼を摂った。テレビにはアイドルグループの卒業生が今だから話せることを身振り手振りで語る様子が映し出されている。
休憩後はバックヤードでパンフレットを増産したり広報用の写真をレタッチしたり。早々に来場されたお客さんが作品をくまなく眺めていくのを我が事のように見守る。一通りの作業を終えたら早めに帰ってすぐに風呂の支度を。湯が溜まる間に和室でひと息ついていると、猫はワンピースのたわみにそそくさとおさまり、あぐらの上で満足げな顔をした。
2024/9/3
家中の段ボールと瓶と缶をまとめて捨て、和室の隅までコロコロを転がす。猫たちは興味津々にちょろちょろとついて回る。白色の子は臆病と好奇心とを併せ持ち、見慣れないものには近づいてくるくせに人間が手を伸ばすと前足で殴ったのちに飛んで逃げる。灰色の子は日を重ねるごとに気を緩ませ、今日はいわゆる香箱座りをしていた。
再々販に向けて印刷所を変え試し刷りをした日記本が届く。紙の厚さや色味が想像の通りとは言えず、まだ調整が要りそう。
2024/9/4
コーヒーを飲み干すまでは、とリビングで働いているうちに昼過ぎに。猫たちの訴えるような声を聞きつけ襖を開けると、おそらくはトイレの清掃要請だった。何を言いたいのか少しずつわかってきている感覚がある。猫の方からしてもそうだろう。
美容院へ。鬱陶しく伸びた前髪をどうにかしてもらう。空は晴れやかで、しかし焼けるような熱線は感じられず、カフェの外壁に落ちる木漏れ日に目が留まった。
猫があぐらの上で寝た。和室にいない時間が多かったからか、いつもの3倍くらいの時間を甘えの受け止めに費やした。寂しがってくれているのだろうか。おこがましく思えてあまり実感を持てずにいる。しかし彼らにとってはこの部屋が世界のすべてだ。我々が占める存在の割合も、きっと小さくはないはず。
買い出しのため外をうろつく。涼しくていつまでも歩ける気がした。
羊羹を切り分けるみたいにして上から淡々と刃を刺し入れる。何にかと言えば積まれている仕事に。その傍らで桃を剥く。最後の2玉を同居人と分け合う。果物の清水のような甘みを味わうとき、これが得たかったのだと鮮やかに気づく。口にすれば糧になるという点ではこなすことも食べることも似たようなものか。しかし生きるためだけでなく楽しむための行為でもあってほしい。
猫たちに2回目のワクチンを打つべく動物病院へ。キャリーバッグに素直に入り、待合室でも診察台の上でも騒がなかったのは人間思いが過ぎるというか。訴えるように鳴いたのは帰途に着いてようやくのこと。両の手にひとつずつ抱えた袋から交互にみゃあみゃあと声が聞こえる。
つかれが取れていない同居人共々銭湯へ。いつもと違う曜日かつ時間に訪れたから当然客層も異なる。近隣にお住まいであろうご年配の方々の、互いの近況を伺う会話が耳に入る。今日は水風呂入れるの?ええ調子がいいの今日は。
同居人との展示の搬入のため、午前のうちからWさんが我が家に。リビングで最後の調整に勤しむ彼らのじゃまをせぬよう、下で猫の世話や家事をする。和室の2匹は今日も元気で、くしゃくしゃの紙が敷き詰められた箱を隔てて前足でちょっかいを掛け合っている。
荷物をタクシーに乗せて目的地まで運び込む。古めかしい商店街の外れにそっと建つそこは通りの入口からでは理髪店か花屋にも見え、ギャラリーだと気づかなければ素通りしそうなほど街に溶け込んでいる。先に到着をしていた同居人と2階で落ち合って、白く四角い空間へと段ボールを並べ置く。
Wさんと同居人が配置に悩むのを見守りつつ、作品の高さを合わせたり小道具を組み立てたり物品を数えたりと補佐に回る。時折天井を揺るがす勢いで打ち付ける雨音に、窓のない部屋の中にいながら外の様子を窺い知る。
気圧と疲労と空腹にやられた人間を乗せて雨道を走るにはいささか荒っぽい運転だったタクシーに、しっかりと三半規管をこき使われ、打ち上げの飲み屋ではウーロン茶ばかりちみちみと飲んだ。ホタテのフライは次回も頼む。
みゃあと物言いたげな声が聞こえて襖を開けると2匹が足元に座っていた。いつもなら一定の距離を空けて見つめてくる白色の子との間隔が今日は心持ち近い。扉に向かって鳴くということはそばにいろということか。そのまま部屋に入って作業をする。
想像は概ね合っていたらしい。iPadを広げた机の上に白色の子はいそいそと乗り上がる。付属のキーボードにもたれるように寝返りを打ち、DeleteキーとReturnキーを塞ぐものだから確定も削除もできない。予測変換に頼りながら日記を書く。
灰色の子は綿のワンピースがお気に召した様子。服が毛まみれになることなど当然気にもせず、膝に寝転がり前足を動かしながら鳴らされる首元をぐしぐしとかき撫でる。言葉が通じないからこそ視線や振る舞いでもって伝わる信頼の熱に、たまに打ちのめされそうになる。
友人との飲みから帰ると押入れの襖の一部が裂けていたのは昨夜の話。2匹のどちらの仕業かは見守りカメラの履歴を見ればおおかた当たりはついて、今朝さらに広がったその傷にまさに爪を立てんとする灰色の子を目撃したとき確信に変わった。
べろりとめくれた上張へと伸ばされた前足に手を差し入れて阻止を図ると、人間に構われたことに機嫌をよくしたのか目を細めてすり寄ってきた。悪いとされることをしたその瞬間でないともう叱れないから、致し方なくこねるように撫で回す。
同居人は展示の準備に明け暮れている。台風の影響で搬入が1日早まりかけたりスマホが壊れて急遽電気屋に行く羽目になったり買い足した工具が用途に合わなかったりと慌ただしい。制作そのものを手伝うのは趣旨から逸れるだろうし、猫の世話なり家事なりをなるべく引き受ける。床に散るコンクリートやアスファルトの破片は、落ち着いたあたりで片付けることにする。
2024/8/28
空気が薄いくせに重たい。砂壁に擦った皮膚のように日々がざりざりと削られる。その感覚だけを持て余し、跳ね除けるほどの発起には至らず。ベッドに四肢を投げ出して仮眠。
2024/8/29
寒い日の明け方みたいにぼんやりと拠り所がない。気圧の乱れに責任のすべてを押し付けて、ぼそぼそとつぶやくように手を動かす。
つかれ果てた体を畳に横たわらせる。べたりと伸ばした腕の先には眠る猫の前足。ちょいと触れれば喉を鳴らして身を乗り出してくれた。小豆色の肉球をやわらかく押す。
2024/8/26
猫たちが大はしゃぎ。鮭のぬいぐるみを咥えて部屋中を駆け回り、天井の蜘蛛に釘付けになれば本棚によじのぼってぷるぷると鳴く。そんな騒ぎの中心でおとなしく机に向かいモニターを見つめている自分を知覚すると、ふっとおかしい。
桃がじわじわ熟れていく。2玉切って風呂上がりに食べる。
2024/8/27
目も覚めるほど濃く深い赤に染まった夕焼けが、迫り来る山火事に地を覆われながら空一面に燃えていて、こんなにも美しい景色が最後に見る世界なら帳を下ろすのも悪くない、と思った矢先に夢から醒めた。
大気の圧力を頭蓋に覚えつつも、やれることを愚直にやるのみ。比べるべきは赤の他人ではなくせめて己に。不調を洗い流すべく銭湯に行く。