ことのあらまし

日々のあらまし、いつか平気になるための記録

2024/1/1

しっかりと風邪をひいた。父と母とおせちを囲んで新年の挨拶を交わしたあとに軽く近所を散歩して日の光を浴びたが、どうにも全身のダルさが抜けず鼻が詰まって耳も聞こえにくい。頭もぼんやりしてきたからあたたかく着込んで2階の寝室で横になる。本を読んだり寝たりしているうちに火照ってきたから熱を測ろうと下に降りると、何やらテレビがただ事でない。

あの日、3.11のときも、テレビで知った。私は高校2年生で、演劇部の練習だかなんだかで少し遠くの公民館から歩いて家まで帰っていた。当時はスマホなんて持っていなかったし、ガラケーでニュースを見る習慣もなかった。だから後輩とおしゃべりの限りを尽くし、歩きつかれた足でほくほくとリビングに踏み入ったそのときに、テレビで知った。

画面に映し出されている信じがたい光景が、さっきまで私が歩いた道や吸って吐いた空気や背中に浴びた夕陽や他愛なく交わした会話と、同じ時間、同じ国にあったことだと、すぐには理解できなかった。情報として得た内容に実感が追いつかなくて、夢か映画でも観ているようだった。繰り返し流れる揺れ動く映像を目に映し、ニュースキャスターが読み上げる緊迫した説明を耳に入れ、それでも日々を送ることができてしまった。その日も私は食卓を囲み、風呂に入って歯を磨き、布団にくるまって寝たはずだ。覚えていないのは、それがあまりにいつもの日常だったから。

まさにその場で起きているであろう現実が凄惨で強大なものであればあるほど、伝達という行為によって濾されてしまうものの多さを想像し、立ちすくむ。心の底から真に等しく、絶望を理解し、不安を共有し、痛みを分け合うことは叶わないという事実に、打ちのめされて動けない。世界が反転して、あまりにたくさんのものを奪われて、いつになれば息をつけるかもわからない事態に見舞われた人たちと、まったく同じように悲しんだり苦しんだりすることができない自分を、どう扱いたいのかがよくわからない。わからないままに今日が終わって明日が始まる。そのことをどう捉えたいのかが、よくわからない。