ことのあらまし

日々のあらまし、いつか平気になるための記録

2024/2/10

どんな呪いになぜかかっているのか、という話をたびたびしている。こと旅先のカフェで交わすことが多いのは、ゆっくり向き合うきっかけになるからか。焼きたてのワッフルに刺し入れられたナイフの切先に、レモンソースがまとわって艶めく。

何を負って何と戦っているのか。それはどのように生まれどのように生きてきたのかという話に等しい。だからそれらについて語るとき、目的はただ淡々と知ることに留まる。答えを出したり問いを明らかにしたりするのではなく。

正しいとか正しくないとか、わかるとかわからないとか、どうして解けないのかとか、どうすれば自由になれるかとか。そういった世の中の、あるいは互いの物差しを沿わせるほど、向かい合わせの距離は遠のく。そう簡単に人は人を知り得ないし、人は人を変えられないし、人は人を裁けない。

ただそれでも、またはそのうえでほんの少しだけ踏み出す勇気を、近頃は持ち合わせてきた。あなたはそうあり私はこうあるのだと確かめた末に、小匙ひとすくいのエゴとして、私はあなたにこう生きてほしいと伝えることが、新たな呪いではなく祈りになればと思う。

バスに揺られて東北芸術工科大学、通称芸工大へ。大学時代に一度行ったきりのキャンパスは記憶の中のそれよりも一回り小さく見える。しんしんと降りしきる雪に輪郭をぼやかされながら、あたり一面真っ白な空間に厳かに佇んでいる印象を抱いていたが。今日は雨の予報ではあれ昼の気温はそこまで下がらず、穏やかな気候の中で目にする姿はまた新鮮だった。

暗闇や動植物、山々や雪、太陽や大地を身近に感じながらつくられたであろう、素直で朴訥としつつ地に足のついた力強い作品を観て回るうち、展示室の入り口に貼られた日本画コースのポスターが目に留まってハッとした。生きるを写せよ、と記された一枚の紙に、目が釘付けになった。

そこにあるものを自分というフィルターを通して表す。
それが持つ魅力に寄り添い描ききることは、作者という存在がいないと成し得ない。
これは日本画コースが大切にしてきた写生に通ずる真摯な行いである。
人によっては、何気ない存在を見つめ、惹かれるものを掬い上げた私たちの目に映るものが、
これからも私たちを突き動かしてくれますように。

なぜ日記を書くのか。なぜ写真を撮るのか。なぜそのものがあるのにわざわざ形にしなおすのか。そう自分に問うた数はとっくにわからない。そこにそれがすでにあるなら私が手をかける必要などもはやないのでは。そう思い手を止めたことも数知れない。そんな悩みに、惑う背中に、この言葉はトンと手を添え押し出してくれた。歩み出す勇気をくれた。それでいいんだと微笑んでくれた。じっと瞳が熱くなった。

まだ部屋の中に入ってもいないのに込み上げるもので胸をいっぱいにする。このままここにいつづけたら涙さえ出てしまいそうでそそと扉を開けると、そこには大学の裏山の景色を描いた大きな日本画が飾られていて、今度はもう立ちすくんでしまった。

この視界を表すため筆を執ってくれてありがとう、と心から思った。作者の方がそばにいたなら直接言葉にして伝えたかった。写真でも実際の風景でもなく、描かれたものを通してこの光景を目にすることができてよかった、と。