ことのあらまし

日々のあらまし、いつか平気になるための記録

2024/3/11

起き上がる気力がなく朝のジョギングは諦め、ベッドにくるまったまま本を1冊読み終える。自転車にまたがり出社する同居人を玄関で見送り在宅勤務の準備をするが、カフェインを入れないとどうにもならない怠さが頭と首の付け根にのしかかって重たい。豆を切らしていたからずいぶんと久しぶりにコンビニでコーヒーを買った。冷めると飲めなくなる味だとはわかっているのであたたかいうちにパッと飲み干す。カッと血が脳を巡る感覚に何度かギュッとまばたきをして、イヤホンを耳にねじ込みテンポの早い音楽を大きめの音量で流し込む。

他者にわかってもらうための、理解して納得して共感や感動を覚えてもらうための、筋道立った文を書こうとすると途端に肩肘張って筆が進まなくなりまったくもってつまらなくなる。唐突さを和らげようと加えた前説や、想像の助けになればと付した具体例、親しみやすさも要るかと足した冗談。そんなどれもこれもが不恰好に目に映り、打ったそばから羞恥に耐えられずバックスペースを長押しする。人前に出るからといってサイズの合わない背広に腕を通して付け焼き刃のテーブルマナーを振るっているような居た堪れなさ。何度もやっているうちに慣れてくるのだろうか。

助詞も時系列も係り受けも視点も、ボタンを掛け違えていくみたいにして少しずつずれていく様を、湯に浸した手足がゆらめきに輪郭を奪われていくのと同じように眺めている。いつもよりほぐれた表情でそこにあるそれらを、指の腹で転がし慈しんでいたい。言葉はもっと自由なはずだ。歌のリズムで綴りたい。

iPhoneがかいほうづけを変換してくれない。アワビとメカブイクラを白米の上にこれでもかとかけて頬張る。へとへとの体に磯の香りが染み渡る。寝る前にyahooで3.11と検索。昨日手に取って棚に戻したあの本を、次に見たならそのときは買う。

2024/3/10

セットアップをまるごと買うのに数万円をぽんと出すのは気持ちがいいことだろう。昨日手に入れられずにいたブルゾンと対になるボトムが見たいと言う同居人に連れ立って吉祥寺まで足を運んだところ、サイズ違いのトップスとも出会うことができ、結局一式を持ち帰ることに。ギリギリまで片方だけを買うにとどめておくかとも悩んでいた彼は紙袋を片手に、やっぱり決断は大きく、と誇らしげに述べた。

別の用のため移動する同居人を改札で見送り、続けてあたりを練り歩く。井の頭公園は散歩にはうってつけの陽気に包まれており、地域の住民ではなさそうな男女がそこかしこで日に当たっている。木々や池が音を吸い込んでくれているのか人の多さのわりに喧騒はそこまで耳障りでなく、木漏れ日が散る脇道に逸れれば急に静かになった気さえした。

新古書店「一日」で阿波野巧也『ビギナーズラック』を買い、「古書 防破堤」でじっくりと棚を見回す。震災関連の書籍に手が伸びたものの、今の自分が求めているものにカチリとはまる感じを覚えられず戻す。時計雑貨屋「atelier coin」で年始に空港で失くした真鍮の指輪を買い直し、その場で少し磨いてもらった。押し車やリュックサックにおさまる小型犬とよく目が合う街だった。

sayusha.com

2024/3/9

毎週末のように服を求めて街を歩いている。今日は青山を散策。同居人の目当てのブルゾンは入荷から1時間弱で売り切れてしまったらしく試着すら叶わず。私がずっと探していた白ステッチの濃色のデニムパンツはガラス張りなのに薄暗くちょっと近寄りがたい雰囲気のお店に勇気を出して入ったらそこにあった。着るべき服はずっと身につけていたかのようにするりと馴染む。そうだね、これこれ、と納得する。

強く吹く風が思いのほか冷たく、外にいるとどんどん体温が奪われていく。映画の上映までまだ時間があったので、同居人を原宿駅まで見送ったあと、なんとか滑り込んだスタバで一息ついた。向かいのビルのガラス窓にさらに向かいの建物が反射して合わせ鏡のよう。高層建築で埋め尽くされた視界に空が覗けるほどの余白はもう残っていなかったが、刻々と暮れてきていることは映り込む紺や橙からうかがえた。

映画『ゴースト・トロピック』をBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下で観る。どの場面を切り取っても画が美しく、ねむれない夜をほのかに照らす枕元の明かりのような作品だった。扉を閉めて電気を消したあとにもつづく日々の静けさが、丹念に掬い取るように描かれていた。警備員が案内する薄闇にけぶる商業施設と、コンビニで出会った女性がハンドルを回す車中の映像が、記憶に残った。

www.bunkamura.co.jp

2024/3/8

窓が大きい家にいると外と地続きにあることがよりわかる。先日ほどではないにしても雪が降ればやはり窓際は明るく、照明から下がる紐を引く必要のない朝だった。歯列矯正をするなら上下左右の歯を抜いて2年はワイヤーを着けてそれで100万くらい。テキパキと歯科医師さんが説明してくださるのを聞きながら、もしも引っ越したら通院が面倒になるなと考える。『ゴースト・トロピック』あるいは『Here』が観たくて上映スケジュールを調べると、どちらにしてもこの週末しかもうタイミングがなかった。前日でもひょいと予約ができるから映画はいい。でもそろそろ舞台も観たい。イキウメの次回作は8月頃の予定。

 

2024/3/7

紅茶のパックが切れた。食後の飲み物がほしいが今コーヒーを口にするのは心臓への負荷を思うとためらわれる。戸棚の奥に迷い込んでいたルイボスティーを取り出してポットに湯を注ぎ、あたためておいたマグを夕焼け色で満たした。記憶よりも甘い味や香りに、まだいまいち覚めきっていない頭が、両の手で掬われ揉まれるようにほぐされていく。

楽しさってなんだろう。楽しいってなんだろう。明日と言わず今日この瞬間、息絶えたとしてそのとき私は、どれだけの悔いを残すだろう。巡る思考が沈んでいく。おそらくは天候やつかれのせいだろうが。逃げるように休憩に入る。少しずつ進めていたMIU404を見終えた。最終回は笑顔が多かった。

2024/3/6

壁も隔たりも感じさせる隙なくするりと懐に入るようにして距離を縮める人に時折出会い、そのたびうらやましく思うと同時にかえって遠い存在にも見て取る。昨日推敲した2月24日の日記はまあまっとうに恋文で、読む側からして心地よいものなのかは果たして自信が持てず、しかし今さら消すのもためらわれてそのままにした。伝えなくとも伝わってしまうことがある一方で、伝えなければ伝わらないこともきちんとあるばかりか、伝えたところで伝わらないことだってたくさんあるから、何をしのんで何を押し出すべきかいつも、いつもわからないまま、わからないなりにどうか。

2024/3/5

脚を動かせば前に進めるのだから楽だ。物事は本当はもっともっと単純でむずかしいことなんて何にもない。そうであればいいのに。火曜は資源ごみの日だから走りやすい。すえたようなにおいがしなくて、路上も散らかっていないから。

腹を括ってやっつけたほうがいいものを、そうとわかりつつ腰が引けてしまうことを、ええいままよと予定に入れて、迫る長針におびえる。始まればなんとかなるとは知っているから、早く12を指してほしい。心配は先取りした未来を恐れる行為。どうせそのときになれば向き合う事態を前もって不安がるなんてもったいない。そう言われたある日を思い出す。逃げたいけど戦いたい。火蓋が切られればあとは。

関係のまだ成り立っていない間柄の人と、それを築くために踏み出し踏み込み均らしていくための会話がつづいて、椅子の背もたれに深く身を預けた。それは使い慣れない筋肉を急に動かして生まれる痛みとして至極当然なものであり、休めば落ち着くつかれではあるが、しかし気圧は今日も低く、ぐったりとして何も考えたくない。数分前にしでかした痴態や失言が、おそらく他人からすればどうともない態度の数々が、浮かんでは遅々とした歩みで脳内を巡る。徐行運転をする電車みたいに。

10日以上前の日記を整えながら、何を考え何を感じどう振る舞ったのかを思い出し、そのうち何をどれだけ記すのがふさわしいかと自分に問う。瞑想めいている。落としたい影の位置や見たい世界の毛並みを確かめている。これしかないと信じられる、パズルのピースとなるべき比喩を、求めて地中の奥深く、海の底まで潜っている。願わくばここで息絶えたい。

2024/3/4

目覚めがよかった記憶をうっすらと喰みながら朝の支度を済ませ、ボウルやらふるいやらを並べる。チーズケーキを朝一番に焼いたならまずわるい一日にはならないだろう。クリームチーズをやわらかくなるまで練り、砂糖、溶き卵、ヨーグルト、小麦粉を順に入れてさらによく混ぜたら、型に移して湯を張ったバットと一緒に余熱を済ませておいたオーブンにおさめる。

午前のベランダは日当たりがいい。隣家の屋根にくつろぐ地域猫を見ながら日記を書く。やわらかくてあたたかい生き物が寝息を立てる様を前に言葉を編めるだなんて贅沢な話だ。読みたい本を読み進められていないことへの後ろめたさを抱きつつ、でもまあやりたいようにやればいいのだろうと、背中を熱心に舐めて毛並みを整える黒猫を見て思う。

オーブンから出したパウンド型は粗熱を取るためテーブルの脇に置いておく。茹で上がったパスタをほぐしてソースと和える作業を同居人に頼み、その間にたまごスープをつくって昼食。きのこを冷凍しておくとちょっとした具材として足せるから便利だ。かぼすの万能調味料があればたいていのものはおいしい。

15時ごろに一息ついてケーキを切り分ける。しっとりとやわらかくてナイフを温めておかないとすぐにくっついてしまう。なんとか小皿に取り分けた1切れずつを紅茶と一緒にいただく。ヨーグルトの酸味がさっぱりと爽やかでするすると食べられた。どっしりと重みのあるものも好きだけど、自分でつくるならこのくらいがいい。

納品した日記本の売れ行きがまずまずのようだと本屋さんのSNSの投稿で知る。せっかくなら然るべきところに届いてほしいし、関わる人にはいいことがあってほしい。読んでくれた方の感想を読んだ。私の幸せを願ってくれる遠くの誰かがいると思えば、地平の淵すら光って見える。

2024/3/3

クリームチーズを常温に戻しながら日記を推敲。散歩がてらドラッグストアまで向かい、お使いのプロテインと切れていたパスタソースを買って帰ると、同居人はコーヒーを淹れる準備を万全に済ませていた。漂うお香の煙が差し込む日の光に照らされて、ちらちらとまたたいている。

日記本の発送を済ませて代々木へ。コーヒーを手に晴れの中を歩いて参宮橋まで。同居人はすっかりGraphpaperを気に入ったらしい。パンツを3本、スウェットを1着試す様子を見つつ、ああだこうだ言ったり窓際で日向ぼっこしたり。

新宿に向かう前にカフェでひと休み。ジンジャーエールは辛口でバスクチーズケーキはするするとなめらか。カウンターに腰掛ける青い目をした常連らしき男性が、店員の女性と話す声が楽しげだった。

LUMINE 1を5階から順に降りてNEWoManも回ったけれど、お目当てのデニムには今日も出会えず。薄手のブルゾンや淡色の厚みのあるスニーカーをどのお店でもよく見かけるのは、今年の流行りなんだろう。

夕飯は中華屋で。餃子を頼むならビールもあるべきでは、と黒ラベルを半分もらったはいいが、アルコールにはますます弱くなっている。帰ってから何杯も白湯を飲んだ。

あとは寝るだけ、の状態で、たのしさのてっぺんに長いこといたい。しっかり食べてしっかり酔ったあとに、電車で帰ってお風呂に入ってちゃんと着替えてちゃんと寝ることのなんと億劫なことか。高円寺に泊まりたい、と話した。

2024/3/2

ステッチが白くて生地のやわらかい、色が濃くて太めのストレートデニムを探して祐天寺から代官山まで服屋を見て歩いたが、理想のものには出会えず。DIGAWELで羽織らせてもらったベージュのフーディーと、ハンバーガー屋とライブハウスの間にあるセレクトショップで試した濃紺のベイカーパンツにも、心惹かれたけれど即決とまではいかなかった。パリッとした硬めの生地と相性がいい実感は、だいぶ強固になってきた。

蔵前に移動してsyuroへ。気になっていたレインブーツは驚くほどやわらかく、皮膚みたいに肌に馴染んだ。しかし丈が長くてこれも見送りに。近くに最近できたらしい古道具屋の床を埋める棚たちは、口の中でゆっくり転がした飴玉みたいにとろりと丸まった色味をしていた。帰りのスポーツ用品店で手に取ったスニーカーには、鮮やかな黄のラインが走っている。どうやら春を待ち侘びている。

炭酸泉が混み合っていたから椅子にもたれて外気を浴びながら目をつぶった。しばらく首や肩をほぐしてまた湯船に浸かる。体が温められていくとき、音なんかしないはずなのに内側からしゅわしゅわこくこくふつふつと小さく囁く声が聞こえてきそうで、耳をすませる。よろこび、ほどけ、溶けていく何かが、そこにあるような気がする。

後回しにしていたことに思いを馳せ、勢いづいて袋に詰めたり太刀を入れたりするような頭の中での手作業を、湯船の、特に銭湯の中ではよくやる。左人差し指の欠けていた爪がやっと伸びて、絆創膏生活からは卒業。

2024/2/29

昨日集積所に出しておいたぬいぐるみたちは周りにあったビニール袋と一緒にきちんと姿を消していた。大学時代から引っ越しを共にしてきた彼らを手放すことにためらいが無かったわけではないが、もうじゅうぶんだとも思った。抱き枕ほどの大きさのカピバラと、バレーボールみたいに丸々とした文鳥。ありがとう、おかげで、と胸のうちに唱えて、空っぽのゴミ捨て場の前を通り過ぎる。

走ったついでに買ってきたソーセージエッグマフィンを朝食にし、アイメイクを丁寧に施す。病床に伏したのをきっかけに在宅のときは眉だけ塗って済ませるようになった分、外に出る日はちょっとばかり気合いが入る。それぞれのパーツがペンでなぞったみたいにはっきりとしていくのを眺めるのは、自分の顔でありながら絵を描くようでたのしい。

ピークの時間をずらしたわりに電車の中は混んでいた。出社がひさしぶりすぎてオフィスが何階にあるのかわからず、エレベーターを前にはたと戸惑う。案内板に目をやると誤った階を指していることがわかり、あわてて取り消して正しい番号を押し直した。

どうすれば言葉をうまく扱えるようになるんでしょう、と投げかけ、書いて読まれてあれこれ言われるのが一番だよ、と返されたのは明瞭だった。同じ世界に生きているはずなのにこうも視点や筆致が異なるものかと、驚きを手渡してくれる作品にもっと触れたい。日記にしろ短歌にしろ随筆にしろ脚本にしろ。

2024/2/27

東京には何もない、ってこないだ知り合った人が言っていたけど、そんなことないよね。蛇が這ったあとの藪のようにうねる住宅地の隙間を駆けながら、隣で同居人が口を開いた。日はもうほどほどのぼっているはずなのに、ここだけ1、2時間ばかり前に取り残されているみたいに薄暗い。古びたアパートの玄関はまだ夜の淵に立っているかのように影に潜んでいて、申し訳程度の幅しかないベランダは今にも壊れそうなほどに錆びている。

山間や海辺にあるものと都会にあるものは違う。それぞれの地域の内でも濃淡があり、あると都合のいいものはことさらに持ち上げられるし、都合のわるいものは平然と隠し通され見て見ぬふりがされる。翳りがちで湿った場所にも当然に人は生きていて、その人たちがことさらに恵まれておらず不幸せかというとそうとも限らない。あるものをないことにはしたくないし、知らないことは知りたいと思う。

天井を外せた気がした。あるいはマンホールの蓋だったのかもしれない。少しずつ狭く細くなっていく、明かりも不安定で終わりの見えない道からどうすれば這い出せるのか。右に左にとさまよっていたけれど、はしごを上がればパッと視界が開けた。背負っていた荷を降ろせたのは、休みの間に話した友人たちのおかげだと、職場の日報を書きながら感謝した。

2024/2/26

6時前に目覚めた同居人がいそいそと身支度を済ませて外へ駆けていった。北秋田で過ごした早寝早起きの日々がよっぽどよかったらしい。少し遅れて私もトレーニングウェアに腕を通す。身体を伸ばし、キャップを被り、スニーカーの紐を整えて玄関を出る。

まだ寝ぼけた街が徐々に明るくなっていく中を、ひんやりとした空気に頬をはたかれながら小走りで進む。病み上がりの頭がきーんと冷たく耳鳴りのように痛み、その痛みの点を中心に感覚がじわりと滲んでいく。帰ってシャワーを浴び、昨日書いた日記を整え、こんなところだろうと筆を置いたあたりで、ようやく仕事を始める時間になった。

毎日に、もっと言えば人生に、重きを置きたいものから順に手に取り箱に詰めていく。そんな生き方を当たり前だと思い、そんな生き方を叶えたいと願い、そんな生き方に近づこうとしている。感覚が眠り言葉が埋まる大地を、朝に耕し夜に踏みしめているとき、一番素直に息が吸える。

2024/2/25

冷え込む曇天の下、半分も埋まっていない映画館の真ん中で、朝8時半に『PERFECT DAYS』を観た。

目を奪われる驚くべき展開があるわけではないにもかかわらず、長く沈み込んだあとのソファのような窪みが、観た人の胸にいつまでも残される。抱き止めるため背中に回された腕の温もりのように、愛おしく安らかな感触が、身を包んで離れない。触れる前と後とで世界の見方が変わる作品は、誰がなんと言おうとすばらしい。そんな作品を、静かな雨の日に観ることができてよかった。

斜めに吹きつける細く冷たい雨に身を縮こませながらバス停に並び、3、4本ほど見送って目当ての便に乗り込む。バスは酔いやすいからあまり乗らないようにしているのだけれど、灰色の空を背負ってそびえるスカイツリーに目を向けていたら、不思議と平気でいられた。車窓という隔たりを挟んですぐ近くを通り過ぎていく路上の一人ひとりが、コンクリートの上でまたたく、小さく等しい光源に見えた。

押入れの中の古い服や雑貨を整理し、衣装ケースの見通しをよくしたところで、秋田から帰ってきた同居人がほくほくと土産話をしてくれた。北の地の雪山は銀塩写真のように色が少なく、どこからどう見た景色かもわからないほど遠近感が薄れる光景だった。帰りたくなった、と彼が言う。青森の恐山を思い出す。魂が帰る場所があるなら、こんなところなのだろう。

2024/2/24

これだけはオススメしたい映画は、と聞かれて『ゆれる』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』と返す。人と人との間に横たわる、けっして乗り越えられない距離やわかりあえない線引きについて、森林の奥にひっそりと眠る湖面のように、静かに描く作品が好きだ。今この人が口にしたその言葉が、真に本心からの偽りのないものなのか、それともどこに出しても恥ずかしくないほど真っ赤な、あるいは本人ですらわからないほど入り組んで曖昧な、はたまた咎めようもないくらいにやさしい、嘘なのか。それは誰にもわからないということを、言葉少なに確かめさせてくれる、冬の朝に吐く息かのごとく、白く漂う物語が好きだ。

好きなものの話をするのは楽しい。映画や演劇、小説や漫画の話をしているとき、生き生きとしていることが自分でもわかる。先月は10本以上映画を観ました、『フォレスト・ガンプ』は元気をもらえていいですよ、トム・ハンクス演じる主人公がずっと走っていて、仲間もどんどんできていくのに、ある日突然やめちゃう、それがすごく、なんというかかわいくて、とにかくいいんです。そうつらつらと語るWちゃんも、表情を見るに似た趣味の持ち主なのだろう。古民家を改修した木目の濃い定食屋で、窓際のカウンターに横並びに座って話すうち、胸の底が火照るようなうれしさを覚えた。

およそ2ヶ月ぶりに待ち合わせた彼女とは、もっとずっと会っていなかったようにも思えたし、ほんの先週すれ違ったばかりにも感じられた。海辺に洗われた小石のような瞳に、見つめられるたび吸い込まれそうになり、抗うための背筋が伸びる。しかし同時に、この目に映り続けたいと、祈るような情も湧く。

手に入れてもいないのに手放したくない人がいて、どうすればこれをきちんと、ちゃんと正しく大切にしていられるかと、考えることがある。常に隣にいたいわけではなく、同じだけの気持ちを相手に求めるつもりもなく、しかしあっけなくたち消えてしまうのは惜しくて、いつまでも覚えていてほしいというよりは、いつだって忘れていいから、いつか思い出してもらいたい。

こういう人の日記を、私は読みたいんだろう。あなたが日々何を見て、何に笑い、何に悲しみ、何に憤ったのか。知りたくて、教えてほしくて、わかりたい。拒まれるのはこわいから、近づくこともはばかられて、そのくせ受け止めてほしいと願い、ほどよい居場所を探している。

風呂をためながら上映スケジュールを確かめて、朝一番の『PERFECT DAYS』のチケットをとる。明日は朝から冷え込んで、しかも雨まで降るらしく、きっと人は少ないだろう。観るなら早朝、または深夜の、なるべく人気のない時間に。そう教えてもらったから、教えてもらった通りに。