ことのあらまし

日々のあらまし、いつか平気になるための記録

2024/3/26

上着をはおれば暑く脱ぐと寒い雨の室内。どうでもいい問題に悩まされていることを癪だと思い始められたら勝ちだ。勝ちも負けもないはずだがそれはそうとして気持ちの話。歩ける道はこの一本だけだと決めつけられているうちに他の道があることに気づけなくなっていくのが怖くて不安で嫌だった。思い出すたびうなされるように目が覚める。逃げ出すための脚と真実を見据える瞳は常に守っておかないと。

2024/3/25

サバの切り身と梅干しを炊き込んだごはんを茶碗に盛って、細切りの大葉と炒りごまをふわりとかける。少し焦げついたかぼちゃの煮物を小皿に移し、じっくりと味わうように口を動かす。何をしても心の足取りが重たかったけれど多少は。たっぷりためた湯船に肩まで浸かって目をつぶり、深く息を吸って吐いたらもうちょっとは。

取り返しのつかないことを重ねそうで怖くなった。やさしいのは他人で、おろかなのは自分だと、定規で線でも引くみたいに白か黒かに分けようとしている。どっちにも染まりきれない自分の、足元に落ちる心許ない影に、潜めるほどもう小さくはない。

iPadにつないだキーボードを拭いた。充電の調子がわるい。

2024/3/24

小鍋を傾ける手元が狂ってテーブルから椅子の上のクッションまでどろりとした白濁の砂糖液で濡らす。まばたきひとつせず壁を見つめて菩薩のように薄く笑う、よく知った人の横顔が目に焼き付く。また間に合わない夢を見た。

カリカリになるまで炒めた細切りのベーコンが散るフライパンにトマト缶を空けて煮込み、固茹でにしたパスタを落として和える。片方の皿に1人前、もう片方の皿に2人前相当の量を盛り、胃腸の調子が戻ってきた同居人と食卓を囲む。ベランダや寝室だけでなくダイニングにも窓があればと思う。そうすれば湯気がもっとよく光るから。

よしもとばなな『はーばーらいと』を読み始めて読み終える。ことさら居た堪れなかった頃の自分にまつわる記憶が呼び起こされて生ぬるい汗がにじむよう。たまらなくなって窓を開け、風を頬に受けた。なかったことにしたい。他人だったと言いきりたい。そんな過去の出来事を、誰もがすっかり忘れてほしい。

銭湯から出てランドリーの仕上がりを待ちながらナタデココ入りのぶどうジュースを飲み干す。微炭酸が湯上がりの体に染み渡っていくのを自販機の光のふもとで味わう。2度と目にできないものは綺麗だ。もう呼ばれることのない名を思い出した。

2024/3/23

雨が止むのを待って外へ。もう夕方に差し掛かっているからか、商店街の人だかりはいつもの週末ほどではなく、メンチカツ屋に並ぶ列も4、5人におさまっている。この調子ならあそこも静かだろうと見越して向かった喫茶は予想通りの貸切で、チャイと苺大福をいただきながら尹 雄大『聞くこと、話すこと。 人が本当のことを口にするとき』を読んだ。店をあとにする頃には空はすっかり暗く、濡れたコンクリートと草木のにおいが足跡のように残されている。ポンジュースとハンドソープを買って帰った。

2024/3/22

元日付けで入社したこの会社に在籍してそろそろ3ヶ月。オープンスペースのハイチェアに座って10名ちょっとでピザを囲む。酔って電車に乗りたくなくてお茶やジュースで喉を潤し、シラフで同期と言葉を交わした。自然と話題の中心に立ち、そこにいるだけで場を照らして、周りが欲して離さない。そんな主人公めいた人がいて、まぶしさのあまりに日焼けするかと。アルコールを入れずとも飲み会の雰囲気を浴びたあとは出汁を味わいたくなる。帰宅してリビングであさり汁を啜りながら、接頭語と接頭辞の違いを調べた。

2024/3/21

この家は春一番が吹いたって音を立てて軋むから、地震なのかそうでないのかパッと判別がつけがたい。肌が粟立つような警報がスマホから鳴り響いて、やはり揺れていたかと理性的に理解する。即座に窓に手を伸ばし、バンと開け放ったらガス栓を閉めにキッチンへ。みしみしと縦に震える箱の中、次は何をすべきか、妙に冷えた頭で考えている。

昨日から具合が悪そうだった同居人がついに発熱。おそらくは食あたりのよう。感染する類のものではなさそうだが、念のため部屋を分けて過ごす。私は私で気が参ってしまった。それでも齧りつくようにしてなんとか。たいした者ではない。たいしたこともない。一日にやれることも、一生をかけて成せることも。それでも生きているうちはなんとか。

2024/3/20

守られた場所で静かに読書にふけりたかったが目当ての喫茶には入れず。気圧とともに下り坂を転げ落ちていく精神をどうやって掬い上げればいいのかわからず途方に暮れる。同居人の提案により駅ナカの洋菓子屋で奮発したいちごのレアチーズタルトがおいしいのには助かった。鏡に映る自分の姿すら気の持ちようで見え方が変わるのだから、甘いものを食べてあたたかく眠ればおさまるものに無理に向き合う必要もない。反射するすべてに背を向けてページをめくった。

2024/3/19

言われたことをして、やるべきことをやり、間に合いそうにないけど間に合わせるためにどうにかこうにか。真面目だと思う。真面目すぎるきらいもある。会議がつづいて余裕がない。しかし天気は抜群にいい。息継ぎをする心地で予定と予定の合間を縫うように外を歩く。大丈夫、大丈夫、と言い聞かせている相手は自分だ。追い込んでいるのもたいていは自分だ。

2024/3/18

風が強い。ハンガーが大きく揺れて物干し竿にぶつかる音がベランダから響いてきて不穏。ガツンガツンと鳴るたび様子を覗いてまたリビングに戻る。今日も在宅勤務。

こんなにも天気がいいのに家にいながら画面を見つづけているだなんて。そう気づいたはいいものの、上昇する気圧に心情を振り払われべたりと床に伏してしまった。

心ひとつ自分のものにできない。わかりきった話だが。しかし胃腸までも調子がわるいとは。3日つづけて薬を含む。飲めば効くからいい。効くなら飲むまで。

2024/3/17

春服を物色しようと高円寺へ。昼食後の飲み物を求めてキタコレビルに向かう。ビニールでできた暖簾をくぐると2畳に満たない手狭なカウンターにオレンジ色のパーマの女性をみとめた。

マサラチャイを頼む間、吹き抜けを見上げる。時刻は12時過ぎ。工事現場じみた足場の隙間から半透明なトタン風のパネルを通して陽光が空き地を照らしている。湯のシュンシュンと湧く声にテクスチャを上書くようにしてレコードが回る。ざらついていながらとろみのある音でほら穴の中めいた空間が満たされている。

カップを受け取り丸太のような椅子に腰掛け一息。山野アンダーソン陽子『ガラス』を捲りながら時間を過ごす。道ゆく住人の挨拶がたまに聞こえるばかりで他にお客は一人も来ず。洋楽の流れる穏やかな日陰だった。

服屋を見て回るがスウェットもボトムもめぼしいものは見つからず。本屋を巡ってよしもとばなな『はーばーらいと』山階基『風にあたる』を手に入れる。ひとりだとやたらと歩いてしまう。今日は2万3000歩。

2024/3/16

散歩する柴犬を2匹、窓越しの飼い猫を1匹、路上の地域猫を1匹。朝6時の住宅地を駆けると早起きな動物と目が合う。玄関を開けるとキャリーケースを傍らに三脚を背負う同居人が靴紐を整えていた。

彼を見送り家事を済ませ身支度を整えてもまだたっぷりと時間があって、今日はどんな一日にしようかと胸を踊らせる。しっかりした朝食をたまには、と思い立ち、古い木造アパートを改装したカフェまで。8時から提供している定食は期間ごとに内容が異なり、今は神奈川は真鶴の食材が用いられていた。黄金色の味噌汁に浮かぶ油揚げは席の日当たりのよさも相まって機嫌がよさそうだ。焼き魚や卵焼き、おひたしを箸で割いて湯気を立ち昇らせる白米と一緒に口に運んでいると、まるで旅館で過ごす朝のようにも。窓辺であたたまりながら食後のほうじ茶を飲みつつ、日記を覚え書く。

お腹を満たしたところでギャラリーを回ることに決め、まずは上野へ。花見客で賑わい始める公園を突っ切って上野の森美術館で『VOCA展』を観る。ついこの間も観た気がしたけれど前回からもう1年か。自分が今いるここはいったいどんな場所なのか、というある種個人的なテーマに、地に足を着けて向き合っている作品が多いように感じた。

行きがけにパン屋で買っておいたスコーンをベンチに座って食べて昼とし、初台に向かう。山手線に乗って代々木で降り、コーヒーを片手に30分ほど歩く。天気がよくて身軽だと都心の1駅2駅くらい容易に跨げる。ごおごおと音が響く首都高の下を潜るとき、この上を何トンもの車体が走っているのだと考えれば肝が冷えるが、道ゆく人は手元のスマホに熱心だ。建築物の隙間から覗く空があんまり青く、太陽を遮られた道路の裏面はずっしりと暗くて、そのコントラストの強さを東京の景色だと思う。

オペラシティアートギャラリーで『ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家』を観る。言葉と写真と絵画とガラス作品とそれらを取り巻く光と影のすべてがよかった。口で吹いて手で回して熱して固めてつくる器はまったく同じ形になるものはひとつとしてなく、完全に均等で対称な形にすることも難しい。目に見えないほど微細な歪みや波が生じ、しかしそれは手に持ったときにふと馴染んで、触る指によろこびをもたらし、つける唇に快さを運ぶ。そのことを、空間に並べられた平面と立体と映像から、囲まれるようにして知る。

余韻を携えてfuzkueへ。金柑シロップの炭酸割りとベイクドチーズケーキをお供に読書に耽っていたらあっという間に2時間ちょっとが過ぎていた。帰りに新宿駅まで歩いていたら公衆トイレを見かけて、『PERFECT DAYS』を思い出した。

2024/3/15

上野駅は今日も人が多い。こんなにもたくさんの個体が概ねぶつからずに肩をすれ違わせながらそれぞれの行き先に向かって足早に進めているだなんて俄かには信じがたい。広小路口には大型のデジタルサイネージがいつの間にか設置され、毛の一本一本まで見て取れそうに精緻に描かれたパンダが時計盤を抱えて現在時刻を知らしていた。表示が切り替わるたびにまたたく光が、すぐそばの高架下をちかちかと照らす。明かりの先ではホームレスの男性が座り込んでいる。

行き帰りの車窓越しに景色を流しつつ手元の本に視線を落とす。地下よりも地上を走る乗り物のほうが好きなのは閉じ込められている感覚がまだマシだから。潜るため階段を降りるごとに頭がキシキシと痛んで胃に汗をかくから。スマホではなく書籍を手にする乗客が増えてきたように思う。心なしか。

レモンチーズケーキ味のスーパーカップにスプーンを差し入れながら、明日からの大阪への遠征のため荷造りに励む同居人を見守る。会社員の任務のひとつとしてではなく、友人たちとの活動の一環として、あるいは読んだ本に記されている光景を目の前にしたいからといった理由で、彼は身軽に体を持ち運んでいる。

2024/3/14

太陽を逃すまいとベッドシーツを洗う。竿いっぱいに身を預けた白い布地がたふたふと風に揺れている。自分で自分を省み、見出した陰影や手触りを言葉に落とし込むとき、息をしている感覚はないのに脳は縁まで研いでいる。削ぎ落としたものに大切なものは含まれていなかったか。しかしだとしてあとの祭りだ。荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』を読む。今読めてよかった。

www.kashiwashobo.co.jp

2024/3/13

阿波野巧也『ビギナーズラック』を読み終える。三十一文字という箱におさまりながらも57577の区切りをするりと追い越していく様を、間近にというよりは液晶越しに眺める心地でページをめくった。指先でなぞり上げた画面に映る誰かの日常みたいに、歌に織られたなんてことのない場面が、視界の端からまた端へと、音もなく流れていく。

いないことにされている、とか、透明になったよう、といった表現を、紛れもなく差別を受けたことのある人の口から実際に発せられるのを前にして、それらのあまりの本物さに目を見開く。外野が、傍観者が、扱いやすい言い回しのひとつとして単に道具として使っているのではなく、物事の中心にずっと立っている、いわゆる当事者と呼ばれる人々が、痛みや苦しみや悲しみや悔しさをにじませた生身の言葉として使う瞬間が、強く瞳に焼きついた。

人は人を簡単に見下すし、人は人を容易く差別する。それはある側面からすれば然るべきこと。だろうとは薄々わかりつつ、しかし抗いたい気持ちを抱きながら、自分の中の認めたくない部分に視線をやっては顔を逸らし、また向き直している。醜い己を知りたくない。でも蓋をしていては変われない。

2024/3/12

いつだって必ずYESかNOを返してくれるんだから気分で反応の変わる人間なんかよりよっぽど楽で扱いやすい。コードについてそう語っていた人のちょっと諦めるように笑った顔を思い出す。エラーを3度直してひと息。

道具というか作法というかに慣れるのに手こずってもどかしい。だけど最初はなんでもそうだ。気圧につぶれそうな体の傾け先があるだけよかった。

3分で茹でられるパスタにしたら昼の休憩に余裕ができた。半分に折れば小鍋でも茹でられる。そうすれば後始末のすべてを食洗機に委ねられる。日々のこまやかな手作業に気が紛れるときはあれ、しかし24時間は限られている。